貼箱特集vol.2-貼箱の歴史

前回、貼箱とは、といった初歩的な説明を書かせていただきました。

今回は、貼箱の歴史についてサクッと紹介していきます。

1.はじめに

当社は厚紙を使った化粧箱を主力に展開しています。現在、化粧箱は厚紙を使った箱や段ボール箱が大量生産の商品では多いですが、歴史としては最近のことで、元々は「貼箱」といった箱が主流となっていました。今回は、そんな貼箱の歴史を簡単に書かせていただきます。

2.紙の伝来から洋紙の時代へ

610年頃に高句麗より紙の製法が日本に伝えられてから紙が全国へと広められたのは、794(延暦13 年) の平安遷都以降で京都市上京区の北野・平野付近に官営製紙場として、紙屋院が置かれ全国へと紙漉きの技術が広められました。

それから干年余りの時を経た1868年(慶廂4年)、明治維新により京都から東京に都が移り、外国から洋紙が輸入され始めると次第に洋紙製造への機運が高まり始めました。

さらに、政府が和紙から洋紙への転換を表明したため、全国での洋紙生産が一斉に始まりました。
1872年(明治5年)より有恒社、王子製紙、蓬莱社、三田製作所、神戸製紙所、パピール・ファブリックが次々と誕生し生産を始めました。

3.紙箱のはじまり

日本にボール紙が初めて輸入されたのは1872年(明治4年)(神奈川県紙函工業組合沿革史)。

全国紙器工業会史によると、その頃の製函技術は、はなはだ幼稚なもので鋏を用いて原紙を切り、角切りは罫引き台に紙をのせ、大工用の罫引きで筋を入れ、鋏で四隅を切りとるなど紙箱100個を作るのに3人がかりが終日働いて4日間掛かったそうです。

紙の裁断に使う昔の工具

コーナー部(隅)を切る昔の手動式機械

コーナー部(隅)を切る昔の手動式機械

1874年(明治6年)、大阪府堺市に納屋伊平(1831年生まれ)という人物がいた。長男が小学校入学期を迎えた時、伊平は息子のために「学用品入れ」を作った。

古い和装書籍の青表紙をほぐし、これを芯にして紙箱の鞄をつくった。この鞄を見て、学友たちが欲しがり、あちこちから頼まれるようになり、伊平は商売として鞄を作り、夜店の商人に売らせることにした。
1876年(明治8年)6月、伊平44歳、自家の軒先に看板をかかげ、伊平は本格的に製函業に乗り出した。紙箱製造の誕生でした。(東京紙器株式会社~日本紙器業の歩み)

4.紙箱の黎明期へ

1878年(明治11年)、納屋伊平が大阪東区道修町の現:田辺製薬から重炭酸ソーダ1ポンド入れ紙箱100個の注文をうけたのが、薬品容器としての紙箱量産化の第一歩だった。
原料は輸入ボール紙と上張り用の艶紙で、いかにも“洋箱”らしいものが国産化された。
明治13年になると、この現:納谷紙器工業所のほかに、松田潤吉が、菱形・六角形の色紙で装飾された白粉箱の製造販売を始め、高田芳兵衛が玩具用化粧箱をつくり出した。
明治14~15年になると、薬品・化粧品のほかにメリヤス・石鹸・洋傘・帽子なと新時
代の商品が勃興期に入り、これに必要な紙箱需要も急増し、大阪で30数名の同業者が群生した。
東京では納谷の開業におくれることほぼ一年の明治7年(1874)、もと1言州上田藩士、
本郷追分町の原沢という丸薬製造屋が、下谷の同業者でもと松前藩土の井上直之丞と談笑中に、たまたま店にきた紙屑屋が持っていた舶来のボール箱をみて買い求め、これを見本に丸薬用の容器をつくり出したのが東京での紙器製造のはしりである。

工具は包丁・押し切り鋏・文回し(コンパス)・鍛造子鋏•ものさしなとだった。明治14年、日本橋の紙問屋スワラヤ商店に舶来の鼠色ボール紙が入荷し、井上直之丞はこれを買い、紙箱製造を始めた。
このころ東京でも新産業の勃興期で、既存の菓子・鶏卵•海苔などのほか、石鹸・メリヤス向けの紙箱需要が急増した。その後、隅田川を挟んだ下谷·浅草•本所・深川方面に、陸続きで紙器製造業者が開業した。大阪では、年ごとに同業者の数が増え、1891~1892年(明治24~5年)頃には、紙箱製造業者の総計は120名余、職工は350人に及んだ。
当時使われた板紙の多くは輸入品で、年間消費量は東京方面で約200トン、大阪方面で500トン、紙箱の生産金額は約45万円に達した。(『全国紙器工業会史』より)

5.輸入ボール紙から国産へ

板紙の生産が日本で始められたのは、現:大日本印刷株式会社市ヶ谷工場の佐久間真一氏と友人の久具正路・斉藤盛太郎氏と共に、東京牛込区岩戸町の久具氏邸に工場を設け、麦稗の原料による板紙の試造を始めた。これが日本の板紙製造の始まりである。(1877年(明治10年))
その後、埼玉県新座郡片山村の「片山板紙製造所」でも板紙抄造がはじまった。
明治20年(1887)東京府下千住にてスコットランドのバートラム会社から日産8tの
長網抄紙にて洋式による板紙の製造が始まり量産化が開始する。(十条板紙 千住工場)
明治年代における日本の板紙は、「稲わら」、「麦わら」を原料とする黄ボールであっだが、新しい需要を開発するために、いくつかの新製品の開発が行われ、マニラボール、茶ボールであった。

茶ボールは大正5年ごろから各社で活発に抄造され、当時第一次世界大戦のブームに
のり、紙器の需要も増大した。

6.京都の紙箱、そして現在

京都にも紙箱1881年頃から紙箱を作るようになりました。その辺の細かい歴史は、「函咲堂様」で当時の機材を展示の上、資料などを残されてますので興味が沸かれたましたら函咲堂にアクセスしていただければと思います。

このように紙箱の歴史は、厚紙の生産から始まり、当初は「貼箱」のようなガッシリした箱が主流で、商品の大量生産が進むとスーパーのお菓子売り場で見られる「厚紙の箱」のような使い捨ての箱へと進化を遂げていったと言えます。

今回の内容はややこしい内容が多くある程度、編集しなおしたのですが、どうにも硬い内容になってしまいました。

次回は昔ながらの「貼箱」を函咲堂さんで体験してきた「柔らかい内容」となりますので、是非ご覧ください。